陽だまりは此処にある


 カーテンから仄かににじむ朝日に、ふと目が覚めた。

 いつも通りくらいの時間な気がする。枕元に置いたスマートフォンを手探りで探し当て、たん、と液晶をタップする。表示された時刻は、ちょうど平日にかける目覚ましから数分過ぎた辺り。習慣でつい普段通りに目が覚めてしまった。休日の目覚めとしては少々早すぎる。せっかく何もない休日だ、もう少しゆっくりしていてもばちは当たらないだろう。そっと枕元にスマートフォンを戻し、リンは隣を見やった。
 隣で眠る愛しい人――悠真は、穏やかな寝息を立てて未だ深い夢のまどろみの中にいる。その安らかな寝顔に、つい頬が緩む。
 朝、目が覚めて一番に目に飛び込んでくるものが恋人の寝顔というのは、なんと幸せなことだろう。自分にだけ見せる、自分にだけ許してくれる、無垢な少年のような素の姿。それを独り占めできるこの朝の時間が、リンは大好きだった。
 普段のエリート執行官然とした雰囲気から一転していくらか幼げに見えるその寝顔は、どうしてもかわいく思えてしまう。悠真本人としてはリンの前ではいつでもかっこよくありたいというのが本音のようだが、この無防備な寝顔の前でだけは、申し訳ないが“かっこいい”はなかなか出てこないのだった。
 悠真の目元にかかる前髪を、そっとかき上げてやる。起こしてしまうかとも思ったが、そのすらりと長いまつ毛は頬に影を落としたままだ。普段は瞳と同じ色の鉢巻でしっかり覆われる額がちらりと顔をのぞかせて、なんだか余計にかわいく思えてしまった。

 一緒に暮らし始めたばかりの頃、リンが目覚める時間にはいつも悠真は既にベッドにはいなかった。
 隣で眠るリンを起こさないよう静かに起きて身支度を済ませ、リンの目覚ましが繰り返し鳴り始める頃にまたベッドのそばへやってきては、「もう時間だよ」と優しく起こしてくれる。それがたまらなく嬉しかった。
 しかし、それは彼と日々を過ごしていくうちにおのずと心配へと変わっていった。
 悠真は夜、頻繁にうなされていることがあった。苦しそうにうめき、まるで自分を責めるようにその胸元を強くつかみ耐える。そのまま気絶するように眠りの続きに落ちることもあれば、はっと目を覚まして寝付けなくなり、そっとベッドを抜け出して朝までまんじりともせず過ごしていることもあった。……ただ単にリンより早起きというわけではない。うなされ、眠ることができず独りで夜を明かしているだけだったのだ。
 それに気づいてしまえば、何を呑気に一人で浮かれていたのだろうと自己嫌悪でいっぱいになった。こうして生活を共にするまで、どうして気づかなかったのだろう。彼の生い立ち、そして今なお抱える現状を思えば思い至ることはたやすい事実のはずだった。常に彼の思考の隅にまとわりつくもしもの可能性。もし、次のホロウでの任務で突然身体が限界を迎えたら。もし、何の気なしに寝た次の日、そのまま朝を迎えられなかったら。そんな恐怖と今まで戦ってきたのだろう。誰にも打ち明けられず、たった独りで。
 寝不足というだけで、人間は徐々に体調が悪くなるものだ。そこに普段の心労、対ホロウ六課での業務の疲れが重なっていけば、体調が万全である日も少ないだろう。そうしたところへ追い打ちのように悪夢がやってくる。悪循環だ。明るく普段通りの様子を装えていたのは彼の努力の賜物なのだろうが、夜になればこうしてツケとばかりに彼に牙を剥いてきていたのだ。
 しかし、そんな事実に気づいた後でも、リンは何と声をかけたらいいか分からずじまいだった。悠真は心配をかけまいとしてかリンに対しても務めていつも通りに振る舞っていたし、その気遣いを無碍にするのは心苦しかった。大切な人に心配をかけたくないという気持ちは痛いほど分かる。自分が同じ立場だったら、きっと同じように隠してしまう。大切な人の前では、いつだってベストでいたいと思ってしまうだろうから。
 ならば自分にできることは何だろう。そう考えた時、以前悠真に言われたことを不意に思い出した。

“やっぱり、リンちゃんの笑った顔が一番好きだよ”

 ……何か特別なことはしなくていい。いつも通りに、悠真が好きと言ってくれた笑顔で一緒にいよう。彼が夜つらくなってしまうなら、その分一緒にいる間たくさん楽しい時間を過ごせばいい。
 そう決めて、リンは今までと同じく、ともすれば今までよりも明るく悠真と生活を送った。悠真との生活が楽しいことは本心であったし、日を追うごとに意識せずとも笑顔は増えていった。
 朝一緒にご飯を食べて、支度を済ませ出勤する背中を今日も気をつけてと見送って。お互い仕事をこなして帰宅したら、夜はその日のことを語らいながらくつろいで、一日の終わりに二人寄り添って眠る。夜中悠真が起きてしまうことがあれば、寝ぼけた風を装ってそっと身を寄せて。自分がいることで、少しでも安心して日々を過ごせるように。少しでも夜が安らぐ時間になるように。そんな風に日々の小さな幸せを噛みしめていくうち、悠真との生活は次第に穏やかさを帯びていった。

 そうして数か月経った今。気づけば、朝目が覚めた時に隣で悠真が眠っていることが増えた。
 朝はどちらからともなく一緒に目を覚まして、共に朝の支度をする。それで悠真が十分出勤に間に合っていることを考えれば、今まで不必要に早起きを強いられ、睡眠時間を削られていたのだと改めて実感する。
 夜中にうなされて起きることは滅多になくなり、以前あった寝顔の眉間のしわもすっかりなくなった。おそらくいつも悪夢を見ていたからだろう、あまり近づきたがらなかったベッドにも今はすんなり入るようになったし、休日の朝は二人で何をするでもなく布団の中でゆっくりするのが習慣になった。
 「よく眠れるようになった」という本人の言葉通りこの数か月で劇的に睡眠の質が改善され、朝までぐっすり眠ることができるようになったようだった。……むしろ日に日に、あまり寝起きの良くないリンよりも朝に弱くなっている気がする。今や先に起きて身支度を済ませたリンが布団に籠城する悠真を引っ張り出すことが多いほどだ。眠れるようになったことは大変喜ばしいことなのだが、最近の悩みの種の一つでもある。
 ……自分と過ごすことが、悠真にとって少しでもいい影響になっているのだろうか。
 ただの自惚れかもしれない。自己満足かもしれない。それでも、彼の日常が少しでも良くなっているのなら、心穏やかに過ごせる場所になっているのなら。なんだかうれしい。

 夢うつつの境をたゆたう悠真の「んん、」という声に、ふと意識が引き戻される。悠真が少し身じろぎした拍子にあどけない寝顔が近くなって、自然と笑みが深まった。
 今はゆるく閉じられた、その優しく細められた瞳がまた見たい。「おはよう」という、いつもよりほろりとやわらかな起き抜けの声が聴きたい。いつもよりいっとうやさしく触れてくれる手が恋しい。
 そんなことを思っていたら、目の前の閉じられていた瞼が不意にゆるゆると押し上げられて、金色の瞳がやわらかく朝日にきらめいた。

「……おはよ、リンちゃん」
「おはよ。……ごめんね、起こしちゃった」
「ううん、だいじょぶ」

 ……少し熱心に寝顔を堪能しすぎてしまっただろうか。彼のせっかくの安眠を妨げてしまったというほのかな罪悪感がにじむ。しかし、期待していた以上にやわらかでやさしい悠真の声色が、それを幸福に塗り替えていく。
 愛おしい。
 心が、ただその気持ちだけに満たされていく。

「今何時くらい?」 「私のいつもの目覚ましくらい」

 こちらを見つめる金の瞳はひどく穏やかで、とろけるような慈愛の色をにじませている。それがなんだかこそばゆくて、心地よい。

「んー、……せっかくだしさ、一緒に二度寝しちゃおうよ」

 甘えた声とともにゆるゆると腰に腕が回されて、ぎゅうと抱き寄せられる。壊れ物を扱うようにほんのわずか力が込められて、肩口に悠真の頭が埋められた。……密着した身体から、とく、とく、と悠真の鼓動が伝わってくる。すっかり安心した、落ち着いた拍動。それがまた心地よくて嬉しくて、悠真の首元にぐりと頭を寄せる。すぅ、と気づかれないように小さく息を吸えば、わずかに残る消毒液の匂いをかき分けて、悠真の優しい匂いが鼻腔を満たした。大好きな、安心する匂いだ。

「ね。いいでしょ」
「……ん、」

 いっとう甘く少し掠れた声が、朝日で少し遠ざかっていたリンの眠気を呼び戻す。朝この声で甘えれば、リンがすぐ根負けして一緒に寝坊してくれることを悠真はよく知っていた。元々そこまで朝に強くないリンには、効果てきめんなのだ。正直、惚れた弱みでもあるけれど。
 全身を包むぬくもり、ふわりとまとわる悠真の匂い、規則的に伝わる鼓動、耳元をくすぐる穏やかな呼吸。それらすべてが、リンを抗いがたい眠りに誘う。この穏やかな時間を寝て過ごしてしまうなんてもったいない、とすんでのところでまだ働いている思考の片隅で思う。けれど、このどこまでも優しく甘い誘いを断ってしまうのも、それはそれでもったいない気がした。観念して、小さく頷く。

「おやすみ、リンちゃん」

 鼓膜を揺らす悠真の声はもうすでにささやくような声になっていて、優しくリンを眠りの淵へ手招く。そこはまるで春の陽だまりだ。
 誘われるままに身を委ねて、リンは緩やかに瞼を閉じた。
 眠りに落ちる寸前、すぅ、と肩口で小さく息を吸った音がして、悠真も同じことしてるなと口元が緩んだ。

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